【記事・インタビュー】


グラビア記事

「押し入れがベッド代わり
茶の間の人気ものおとしさん≠フ合理的な夫婦生活」




ヤングレディ 掲載昭和41年1966 2月14日号
P131〜P133(3ページ)単色刷り


【解説】

悠木千帆(現、樹木希林)と岸田森、
二人の仲睦ましい夫婦生活を扱ったグラビア記事。
二人が押入れの上下に寝ているという変わったグラビアから記事が始まっている。

ほかにも、洗濯や料理など、普段の生活風景のグラビアが続く。
変わったところでは、
悠木千帆の父親は琵琶の師匠らしく、
その影響で岸田森も琵琶を習っていたというコメントと共に、
弾いている岸田森の珍しいグラビアが掲載されている。

記事の部分には、共稼ぎ夫婦一ヶ月分の簡単な家計簿が掲載されている。
その中で、一番かかる食費は
「ふたりしてちょいちょい実家に押しかけて食費をうかす」と書かれているいのが楽しい。
二人は変わった夫婦と紹介される記事が多かったが、
この記事は、普通の新婚さんらしいグラビアが中心で、
生活風景を中心に構成されているのが特徴。
また、岸田森を取り上げたにしては、珍しく蝶の事に、一言も触れていない。








雑誌記事

「クローズ・アップ 
お手伝いさんから助教授夫人に出世した…
悠木千帆のスイート・ホーム拝見」



週刊平凡掲載昭和41年1966 3月10日号
P52〜P54(3ページ)単色刷り


【解説】

『七人の孫』(昭和39年1964 、TBS)で演じた東北弁のお手伝いさんで、
一躍お茶の間の人気者になった悠木千帆のスイート・ホームを拝見するという企画。
当然夫である岸田森もインタビューを受けている。
結婚してからまだ1年という新婚家庭なので、
帰宅の時も「きたよオ、森ちゃん」という挨拶をしたり、
岸田森が甲斐甲斐しく悠木千帆に紅茶を入ていたりと、
実に初々しい様子が書かれている。

岸田森は、出世作となるテレビドラマ
『氷点』(昭和41年1966 )の出演が、まだやっと決まったときで、あまり知名度がなく、
逆に悠木千帆の方は、森繁を相手に東北弁でやり合うお手伝いさん役でお茶の間の人気者となっていたので、
話は当然の事ながら彼女のほうが中心となってしまっている。
それでも、記者は、二人の普段の生活を細かく描写しており、
当時の様子が良くわかる。

昭和41年1966 1月8日(土)に文学座を退座してから、まだ二月くらいしか経っていないので、
劇団を辞める辺りの事情が、受け答えの中に垣間見られて興味深い。







グラビア記事

「甘い夫婦 −悠木千帆と岸田森。
結婚一年目の日常」



週刊女性掲載昭和41年1966 5月21日号
巻末グラビア(3ページ)単色刷り


【解説】

『七人の孫』(昭和39年1964 〜41年1966 、TBS)でお茶の間の人気者になり、
『とし子さん』(昭和41年1966 、TBS)でついに主役に躍り出た悠木千帆の、
甘い夫婦生活を取り上げたグラビア記事。
結婚してから一年
「「仕事を放り出しても一緒にいたい。…」と口を揃える仲睦ましい夫婦」
というコメントが書かれている事からもわかる通り、
新婚の二人の様子を中心に構成されている。
半そでニット姿の若々しい姿の二人が印象的だ。

結婚式の時に「1日1時間は自由奔放でいよう。…」という約束をして、一年間続いていると書かれている。
そして、「顔立ちも、性格もまったく対称的な悠木と岸田。
「だから、お互いに必要なんです…」とコメント、
うらやましい程の仲睦まじさをアピールしている。







グラビア記事

「岸田森、悠木千帆夫妻の若い新婚生活
夢ある共稼ぎ」


婦人倶楽部掲載昭和41年1966 6月号
P155〜P157(3ページ)2色刷


【解説】

文学座を辞めて、共稼ぎ六月劇場を作った岸田森、悠木千帆夫妻を取り上げたグラビア記事。
生活よりも二人の趣味を中心に、丁寧に取材したグラビア記事である。

岸田森は、もちろん蝶に関して。
二人で捕虫網を持っているグラビアと、
標本を作っているらしいグラビアが一ページ大に掲載されていて、
結構インパクトがある。

悠木千帆は、絵を描く趣味を持っていたという事で、
台所の窓に油彩で絵を書いているグラビアが掲載されている。
「おそうざいを作るよりも、窓に絵をかくためにお勝手に立つことの方が多い」そうだ。

「日本全国の蝶の種類が揃ったら、子供を作ろう」というコメントが、いかにも岸田森らしい。







随筆

「「六月劇場」です=岸田森〈俳優〉」


若い11 名古屋テレビ 掲載昭和411966 年6月1日発行
P16(1ページ)単色刷





【解説】

名古屋テレビの月刊広報誌「若い」に掲載された、岸田森の随筆。
「六月劇場」結成の宣言ともいえる文である。
若々しさがあふれる、ちょっと固めの文章で書かれており、
岸田森自身の演劇に対する姿勢も書かれている、短いながら注目すべき随筆といえる。

「フト思うことがある−なぜ芝居を続けて行くのかと。
それはやはり、その中にこそ私の青春がひそんでいるからなのだ。
青春とは、決定的瞬間の継続であり、決定的瞬間とは、待つ行為の中に存在しうるものではないのだ」

と、ちょっと哲学的に、自らの劇団を作った動機を語っている。

シャドー・シアター第一回公演に
サルトル「蝿」を題材にした長田弘作「出発(仮題)」を準備していると書かれているのが興味深い。
実際にはこの企画は舞台化されなかった。


関連作品

六月劇場

B・Bの歌(ブレヒト・オン・ブレヒト)(昭和41年1966
名づけるな、わたしたちに(昭和41年1966

魂へキックオフ(昭和42年1967
審判 銀行員Kの罪(昭和42年1967
かれら自身の黄金の都市(昭和43年1968
夜うつ太鼓 死んだ兵隊の伝説 二幕五場 喜劇(昭和43年1968
魔女傳説(昭和44年1969
海賊(二幕)(昭和44年1969
魔女傳説(再演)(昭和44年1969
海賊(二幕)(昭和44年1969
鼠小僧次郎吉(昭和44年1969

「おとしさんがんばる!劇団を結成した岸田森・悠木千帆夫妻」(昭和41年1966
おじゃまします ただ今6月劇場≠ノ熱中 岸田森(きしだしん)(昭和42年1967









対談

「わたスたち愛情もお金もなスに結婚スたんス!
TV「おとしさん」で人気上昇中の悠木千帆さんと、
岸田森さんの語る結婚生活の幸福指数」




週刊女性自身掲載昭和41年1966 6月20日号
P134〜P137(4ページ)単色刷り


【解説】

歯に衣着せぬ発言が人気を集めていた加賀まりこが、
インタビューアーを担当した対談調のインタビュー記事。
他ではあまり書かれていない事が多く、興味深い記事だ。

加賀まりこは、二人にかなり突っ込んだ質問をしているが、
悠木千帆も負けずに、加賀が、石坂浩二を京都まで追いかけたのではないかなどとカマをかけたりと、
かなりヒートアップしていて、読んでいて楽しいインタビューである。

後年の状況からは考えられない事だが、
まだ、この頃岸田森はアルコールに弱く、
このインタビューでも「みだれては申しわけないから」とコーラを注文している。
ちなみに、悠木千帆はビール、加賀まりこは日本酒のオン・ザ・ロック。
佃公彦が、二人をイメージして描いたイラストでも、
岸田森は外で蝶を追いかけ、悠木千帆は家の中で酔っ払っている。

ちなみに、タイトルで、しきりに「ス」という文字が入っているのは、
当時悠木千帆が『七人の孫』で演じた、ずうずう弁(東北弁)のお手伝いさんで人気だったため、 その口調を記事に使っている。








グラビア記事

「《ある日ある時》かざらぬ愛のひととき」




女性セブン掲載昭和41年1966 6月29日号
巻頭グラビア特集(1ページ)カラー


【解説】

週刊平凡の巻頭カラーグラビア特集「かざらぬ愛のひととき」に、
岸田森、悠木千帆(現・樹木希林)夫妻が取り上げられたもの。

「芸能人の離婚問題が多い昨今だが、そんななかで、ゆるぎない愛を確立している6組のおしどり夫婦−そのほほえましいスナップと対話をそっと聞いてみよう」
といいうのが特集内容。

ほかには、勝新太郎・中村玉緒夫妻、宝田明・児島明子夫妻、山本耕一・小林千登勢夫妻、
山崎努・黛ひかる夫妻、大川橋蔵・丹羽真理子夫妻の5組が取り上げられている。
二人の会話は以下の通り。

岸田森「ぼくたちって、まだ夫婦になった、という実感がわかないね。ごく親しい友人といったほうがぴったりだ。」
悠木千帆「あなとほど手のかからないご亭主も少ないわ。おかげで私は、なんの障害もなく、妻と女優を両立できるわ。」

撮影は「東京・目黒の稽古場にて」という事で、二人で買った東京都港区白金台にある瑞聖寺の境内である。








グラビア記事

「おとしさんがんばる!
劇団を結成した岸田森・悠木千帆夫妻」




週刊明星掲載昭和41年1966 7月24日号
巻頭グラビア(2ページ)モノクロ


【解説】

テレビ『七人の孫』で人気者となった悠木千帆が、
文学座を辞めて夫の岸田森と共に劇団六月劇場を作るということを扱ったグラビア記事。

見開きページに四枚のグラビアで構成され、
そのうちの一枚は六月劇場の仲間、津野海太郎や村松克己らが仲良く写っている。
悠木千帆の作る劇団という事が、当時かなりインパクトがあったのか、
記事の終わりは「おとしさんはがんばっている」と締めくくられている。


関連作品

六月劇場

B・Bの歌(ブレヒト・オン・ブレヒト)(昭和41年1966
名づけるな、わたしたちに(昭和41年1966

魂へキックオフ(昭和42年1967
審判 銀行員Kの罪(昭和42年1967
かれら自身の黄金の都市(昭和43年1968
夜うつ太鼓 死んだ兵隊の伝説 二幕五場 喜劇(昭和43年1968
魔女傳説(昭和44年1969
海賊(二幕)(昭和44年1969
魔女傳説(再演)(昭和44年1969
海賊(二幕)(昭和44年1969
鼠小僧次郎吉(昭和44年1969

「「六月劇場」です=岸田森〈俳優〉」(昭和41年1966
おじゃまします ただ今6月劇場≠ノ熱中 岸田森(きしだしん)(昭和42年1967









雑誌記事

異色コンビ
渡辺美佐子・岸田森
昼のドラマで強い夫婦愛

週刊サンケイ掲載昭和41年1966 8月15日号
P256〜P257単色


【解説】

芸能関係の記事を扱う「芸能ジャーナル」ページ内の記事。
昭和41年1966 8月からフジテレビで放映された昼のドラマ
『愛しの太陽』を紹介している。
それまでの昼のドラマとは違い、シリアスな夫婦愛をテーマにした事が取り上げられている。
岸田森は、このドラマで演じる役について

「あすのない役です。ニヒリズムでもない、デカダンスとも違う、どうしようもない疲労感。そんな状態を演じることに大きな張り合いを感じています」

と、演劇的なコメントを残している。






雑誌記事

夫唱婦随のたのしいクッキング
ボクの自慢料理
八宝菜風八方破れ



婦人生活掲載昭和41年1966 9月号
P256〜P257単色


【解説】

女性向け月刊誌「婦人生活」の、
「料理と栄養」のコーナーの中の一つ、ボクの自慢料理に岸田森が登場したもの。
フライパンをふるっている岸田森、その横に妻の悠木千帆という、
いかにも新婚夫婦というような明るい雰囲気のスナップが掲載されている。

岸田森の作る料理「八宝菜八方破れ」とは、
デタラメな料理なので「「八宝菜」ならぬ「八方破れ」にしておきましょう」との事。
岸田森の料理を扱っているものは、この記事くらいしかないと思う。


珍しいので、記事を参考にレシピをまとめておく。


[材料]

(野菜)玉ねぎ、ピーマン、にら、たけのこ、椎茸など(適量)
(肉)豚肉(適量)
(調味料)バター(多め)、にんにく(多め)、片栗粉、塩、胡椒、しょうゆ

[調理方法]

@野菜を適当な大きさに切る
Aバター多めに使って、豚肉、野菜を炒める。
B火がある程度通った所で、ニンニクを様々な大きさに切って入れる。
(にんにくは、他の野菜の味を変えない程度に)
C片栗粉を薄くといて良くまぜる。
D塩、胡椒、しょうゆで味付けする。







新聞記事

「お茶の時間
岸田森 いつも"全力投球"
剣道三段、きびきびと」




朝日新聞掲載昭和41年1966 9月11日(日)朝刊
23面単色刷り


【解説】

朝日新聞日曜日に毎週掲載されていた「お茶の時間」のコーナーで、
岸田森が取り上げられたもの。
テレビドラマ
『氷点』(昭和41年1966 )が放映され、知名度がアップした様子が窺える。

内容は、昼の連続ドラマ『愛しの太陽』(昭和41年1966 )の事を中心に書かれている。
この番組の事を、
「脚本もかなりぼくの意見をとりいれて書いてもらえるし、
スタッフの人たちも気を入れてくださるので役作りには抵抗ないし…」と語っている。
使用している写真は、シャドーシアターの稽古風景だと思われる。 。







雑誌記事

「仲人さんバンザイ 
三津田 健夫妻=岸田 森夫妻」




新婦人掲載昭和41年1966 10月号
P192〜193(2ページ)単色刷り


【解説】

婦人雑誌「新婦人」の、
特集「結婚・若いスタート」の中のワンコーナー
「仲人さんバンザイ」に岸田森夫妻が登場。

同じ文学座の大先輩、三津田健夫妻との珍しい4ショットで登場。
「あえて4月1日を選んで挙式する」とか、
悠木千帆が「新婦」を「新夫」と勘違いしていたエピソードなど、
記事はこの時期の他のものと同じく、ちょっと変わったカップルという点を強調している。
文章的には短い記事ではあるが、
結婚を近くで見ていた三津田健のコメントは貴重である。







雑誌記事

「TVタレントクローズアップ
鋭い感性的な演技 岸田森」




アサヒグラフ掲載昭和41年1966 10月21日号
P61(1ページ)単色刷り


【解説】

テレビで活躍するタレントを紹介する
「TVタレントクローズアップ」という1ページのコーナーで、
岸田森が取り上げられたもの。

内容は、当時出演していた
『愛しの太陽』(昭和41年1966 )の事が話題になっており、
この番組での芝居が、いかに好評だったかという事が良くわかる。
また、行動派の悠木千帆と、繊細に見える岸田森とが夫婦だという事を、
記者がよほど印象に強く持ったのだろうか、字数を割いて書いている。

小劇団が乱立していたこの時期、
岸田森たちが主催する「六月劇場」は、文学座出身者たちが参加していた事で、
他の劇団にはないインテリな印象を与えたらしく、
雑誌や新聞で好んで取り上げられた。
ちなみに、同じアサヒグラフ、昭和41年1966 7月15日号では、
同じコーナーで悠木千帆を採り上げている。








雑誌記事

「すがお
奥様族に多いファン 岸田森」




週刊朝日掲載昭和41年1966 11月18日号
P106(1ページ)単色刷り


【解説】

週刊朝日のテレビ紹介記事、
役者紹介欄で岸田森が取り上げられたもの。
『愛しの太陽』 『伊都子』と、立て続けに昼のメロドラマの主役を演じている事から、
「奥様族に多いファン」というタイトルで扱われている。
六月劇場をつくり、意欲的な活動を始めていた頃なので、
テレビの仕事を「最初、昼の時間のドラマにでるのには抵抗を感じました。」と語っている。
まだ、役者として方向性を決めかねている岸田森の、心の揺れを見るようなコメントだ。












































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